寄生獣

小学校の頃、寄生獣をがつがつ読んでいた。単行本は全部集めた。が、友達に貸したところそのまま帰って来ず。この前までは単行本の1巻と2巻だけが家に残っていた。そんな状態でもう一度読みたいとは思いつつも読めずにいたわけだが、この度とある理由から家に完全版を揃えることになった。
それで、今さっき最後まで読み終えたのだけど、やっぱり自分に近い感じがする。寧ろ、これを読んで育ったのだから、それだけカスタマイズされているということか。小説なんぞは滅多に読まず、ストーリーのあるものというともっぱら漫画ばかりなのだが、漫画を読んでいてたまに感じてしまうのは登場人物が平面に見えてしまうこと。つまり、登場人物がすべて一人の人に見えて物語全体が独り言の世界に感じてしまう。たぶん、一人や複数と言っても5人もいない人間が作っているとすると、そんなに振り幅は出ないだろうし、あまり出すぎると物語自体がまとまりをもたなくなるのだろう。そういう意味で寄生獣はぼくにとってあまり“独り言”感を感じさせない作品だった。最も、作品自体が大きな独り言なのだけど、ぼくに考え方が近いというか、さっきの流れで行くともともとがそう作られたわけだが、少しの変化が納得の行く方向への変化であるために、登場人物の一人一人がそれぞれ浮かび上がって見えてくるのだと。
小学生の時は何ではまったかよく覚えていないが、覚えているのは最後に後藤をシンイチが殺すのを、納得が行かなく感じていた。今読み返してみると、このことはそうでもないが、今度はミギーが後藤を殺さないというのに違和感を覚える。まあその変化がミギーの違う世界で生きるに繋がるのだろうが釈然としなかった。ただ、最後にミギーが残した人間は「心に余裕(ヒマ)がある生物」であり、それこそが「最大の取り柄」であるということ。そして、それを「すばらしい」としたことは、ミギー自身もそんな風に生きようと強く思ったのかもな。もしかしたら、人間は全体で一つの生き物ってのを後藤の中で実感したのかも知れない。
寄生獣とは関係ないが、さっきの独り言云々の話をもう少し考えてみたくなった。人間がヒマな生き物であるから、本来ならどうでもいいはずの他人のことを考えるということらしいが、他人のことを考える時に知らず知らずにうちにバイアスをかけて見ているのだと思う。まあバイアスが掛からないという状態なれば、精神がそこに存在していないことに等しいのだろうが、バイアスの掛け方も人それぞれで、自分のことを思い返してみると大抵は自分基準である。自分がこう考えるのだから相手も当然同じように、もしくはそれに近い考え方をしているのだろうと。そこから長く付き合うにつれ、微調整して相手のことを理解しようとし、またその情報により感情が広がっていくのだと思うが、やっぱり自分の本来の位置からはあまりずれていないように感じる。自分の位置自体がそっぽり変わってしまうということや徐々にでも大きく変わっていくことはあるだろうが、ある時点においてはそれほど変化がないのではないか。
この意味で、冷静に見ると寄生獣はやっぱり一人な気もする。やはり自分の立ち位置が近いから変化が大きく感じるのだ。アニメのデスノートや以前読んだブラッドタイプなんかは、本当に独り言の世界と感じるものだが、その人が書いている他人を他人と自分を自分として見る位置が、ぼくとはかなりズレがあるのだろう(いちいち名前をフルネームで呼ばなきゃ区別がつかんものは論外だが)。
まあきっと、見たいものを見たいようにしか感じておらず、そのような解釈の上で登場人物が同じ傾向を持つことは人間として当然なことであるが、こんなことを考えているとかなり対極にあるような人が身近にいるなと思い出した。かなりの対極だ。とても理解できん。まあこのような人と出会えたことは人生においてよしとして、進んで行こうかな。これはこれでたぶんあまり他人が知らない世界だろうし。
結局、自分に近い人と話す時はとても話しやすいし落ち着くが、そればかりに固執するのはよくないということだろうか。まあとにかく、寄生獣はおもしろかった。